Dear vol.6


「もう行っちゃうの?」
 ソフィが、彼女にしては珍しいほどのか細い声で尋ねる。シェリアの袖を指先で掴んで、言外に「行ってほしくない」と伝えようとしているのだろう。シェリアはほんの少しだけ、この可愛らしい少女を悲しませていることに罪悪感を感じたが、すぐに首を振って打ち消した。そうだ、もう決めたことなのだ。
 自分自身のやりたいことは、今のラントにはないのだから。
「ごめんね、ソフィ」
「ソフィ、あんまりシェリアを困らせちゃだめだ」
 一歩離れたところから諭すアスベルは、シェリア以上に困ったように笑っていた。その笑顔に、じんわりと胸が温かくなる。笑ってくれて良かった。旅立ちの一歩を彼に見届けられることは嬉しいけれど、少しの不安を感じていたから。
 今でもアスベルへの想いは変わらない。むしろ、一緒に旅をしてからはどんどん膨れて大きくなってしまった。少しの勇気も振り絞れない臆病な自分からは、決して告げられなかった想い。もしも伝えたとしても、きっとまだ本当の意味では伝わらないであろう言葉。その想いと言葉を今は大事に抱えて、子供の頃はなれるとも思っていなかった大人になって、初めての夢を実現させる。その最初の一歩を、彼には見ていてほしかった。できるなら、笑顔で見送って欲しかったから。
「無理はするなよ、シェリア」
「ええ、わかってるわ」
「シェリア、気をつけてね」
「大丈夫よ。それよりアスベル、ちゃんとソフィの面倒、見てあげてね」
「ああ、わかってるよ」
 まるで最初から決められていた台詞をなぞるように言葉は連なる。他に何か言いたいことはあっただろうか。頭の中を探しても、ソフィにちゃんと可愛い服を買ってあげてねとか、花壇のお花は大切に育ててねとか、お爺ちゃんのことをお願いね、とか。ついさっき言ったばかりのことしか思い浮かばなくなった。
(きっともう、行かなければならない時間なんだわ)
 シェリアは微笑んで、ソフィの手を取った。その小さなてのひらを両手で包み込むと、彼女のぬくもりを感じた。私達に勇気を与えてくれた手。守ってくれた光。笑顔を与えてくれたぬくもり。ソフィがアスベルと共にラントにいてくれることが、シェリアの背中を押してくれる。
 私には帰る場所がある。大好きだったラントの街。守護風伯と呼ばれる、あの大きな風車の軋む音。いつだって吹き抜ける風は緑の匂いを運んでくる。私が愛した街。愛する地。そこに、大好きな人達がいる。それだけで、今はもう充分だった。
「さあ、もう行かなくちゃ」
 手配した亀車もきっと待ちくたびれていることだろう。すっとソフィの手を離すと、今度はソフィから腰に抱きついてきた。
「シェリア、シェリア。いつか帰ってくるよね?さよならじゃないんだよね?」
 見上げてくるソフィが、置いていかれる子犬のような表情で、少し胸が痛んだ。整えられた髪を崩さないように、なるべく安心してもらえるように微笑みながら、やさしく頭を撫でる。
「ソフィ、シェリアがお前を置いていくわけがないだろう」
 シェリアの代わりにアスベルが答えて、そっとソフィの肩に手を置いた。
 それが合図。名残惜しくはないと言えばそれは嘘になるけれど、今は何も言わずに、笑って背を押してくれるアスベルに感謝した。
 ソフィもようやくシェリアから離れると、アスベルの隣に立って大人しく黙ってしまった。まだ少ししょんぼりとしているが、やっと心の整理がついたのかうっすらと微笑みを投げかけてくれている。その表情にやっとシェリアも、心から笑顔を浮かべることができた。
「それじゃあ……行ってきます」
 なるべく明るく言おうと思っていた言葉は、思っていたよりも真剣さが滲み出てしまっていた。
 アスベルがそれに気付いたように笑って、弧を描いた唇を開く。
「大丈夫、シェリアならきっとうまくやれるさ」
 根拠のない言葉を平気で吐くアスベルに、少し笑ってしまった。でも、きっとうまくやれる。アスベルがそう言ってくれたのだから。そう思ってしまう自分が可笑しい。変ね、私はもう少し現実的だと思っていたのだけれど。

 門の近くに待たせていた亀車に乗り込もうとした瞬間、ぐいと腕を引かれた。アスベルの手だ。一瞬、どきりと心臓が跳ねる。
 まだ何か言い忘れたことがあったのかしらと口を開く前に、アスベルがしっかりと言葉を発した。
「手紙、ちゃんと返事を書くよ」
 その一言が一瞬遅れて、すとんと胸に落ちる。あの時言っていた言葉。随分昔、手紙を出せずにいたシェリアに届かせるようなその一言に、きゅっと胸が締め付けられる。
「わかったわ。私も、それが口約束じゃないか確かめるために、手紙を書くわ」
 声が少し震えていたことには気付かれなかっただろうか。どうか気付いていませんように。
 そのたった一言で、こんなにも温かくなれるなんて思わなかった。
 いつか帰る場所で待ってくれている人がいる。大好きな人達が。大好きな人が。それだけでも充分だったはずなのに、もっともっと先にあるものを求めてもいいのだろうか。初めて持った夢。幼い頃には考えもしなかったこと。それを叶えて、胸を張ってこの地に帰ってくる日を思い描くと、それだけでシェリアは泣きたくなってくる。不安と期待と少しのプレッシャーと、変わらずあたたかく迎えてくれるであろうアスベル達の姿を思い描く。それだけで幸せになって、泣きたくなってくるなんて。まだようやく始まったばかりだというのに、なんだか可笑しい。

 手を離され、亀車に乗ったあとも、窓からはいつまでも見送るアスベルとソフィの姿が見えた。
「わたしも手紙の書き方教えてもらって、手紙書くよ!」
 大きく手を振りながら叫ぶソフィの声が耳に心地よく響く。
「私も必ず書くわ、ソフィ!」
 シェリアも負けずに手を振りながら、遠く離れていくラントを見続けた。
 まだすべては始まったばかりだ。生まれ育った心地よい場所を離れ、私は私自身のために旅をする。
 改めて決意したことを反芻すると、まるで世界の色が変わったように見えてくる。ウィンドルを吹く風が爽やかに草木を揺らす風景を眺めながら、シェリアはほとんど無意識の内に手を組み、そっと祈っていた。

(どうかみんなに、風の導きと守りがあらんことを)