Dear vol.7


「ああ、もう全然だめだ」
 書きかけの紙をくしゃりと丸めて机の端に寄せると、アスベルは盛大に溜息を吐いて羽ペンを置いた。手元にはいつの間にかこんもりと紙の山が出来上がってしまっている。もしここにヒューバートがいたら、「無駄な字を書いては捨てての繰り返しですか? 資源の無駄遣いです!」と思い切り怒られているに違いない。
 今は一体何時だろうか。ぐっと伸びをすると、思いの他強張っていた背中に驚かされる。そんなに長い間座っていた感覚は無かったのだが、確かに仕事を終えてから自室に戻り、それから更に色々と考えてペンを執ったことを思うと、相当遅い時間になっていそうだ。明日はまた執務室で、数多くの書類とにらめっこする予定になっている。寝不足で細かな字を追う明日の自分を想像すると、ほんの少し背筋が冷えた。
(手紙って案外難しいものなんだな)
 手元でじりじりとランプの光がやわらかく揺れて、紙の上に滲んだインクを照らしている。こんなことなら、簡単に「絶対」返事を書く、などと言わなければ良かったと半ば本気で思ってしまう。それでも、書かなければならない。たとえ約束をしていなかったとしても。


 シェリアが自らの決意を胸に旅立ってから数ヶ月と少し。シェリアから最初の手紙が届いたのはその時期だった。
 ソフィが嬉しそうに執務室に飛び込んできて、「シェリアから手紙がきた!」と満面の笑みで報告してくれた時、純粋な嬉しさが半分と、早くその内容を知りたいというじれったさが半分になって、椅子を倒す勢いで立ち上がってしまった。
 シェリアは律儀にも、アスベルとソフィをひとまとめにせず、それぞれに手紙を書いて寄越した。ふたつの封筒に丁寧な字で綴られた宛先と名前を見ると、それがとても彼女らしく思えて、アスベルは頬が緩むのを抑え切れなかった。
「すぐに返事を書かなきゃ。ねえアスベル、紙と封筒はどこ?」
 読んだらすぐに返事を書こうと思い立った。それはソフィも同じ気持ちだったようで、ふたりして並んでシェリアからの手紙を読むと、さっそくレターセットの所在を尋ねてきた。
「ソフィはなんて返事をするんだ?」
「たくさんシェリアにお話したいことがあるの。お花のことや、ラントでのみんなのことや、アスベルのこと」
「そうか」
 うきうきと、今にも歌いだしそうなソフィに微笑み返してやりながら、アスベルはふと、自分は何を書いたらいいのだろうかと考えてしまった。ソフィのこと。ラントのこと。自分のこと。いやいや、現状を報告するだけっていうのもどうなんだ。シェリアは元気にしてるか?旅をしていると辛いことはないか? ヒューバートや教官、パスカルには会ったか?
(……どうも、違うような気がする)
 絶対に返事を書くとは約束したけれど、いざ書くとなると何を書けばいいのか思いつかない。
「アスベル、考え事?」
「えっ?」
「難しい顔してる」
 きょとんと見上げるソフィに何でもないと咄嗟に返しながら、そんなに分かりやすく考え込んでいた自分に驚いてしまった。手紙の返事で何もそこまで考えることないだろう。頭の中では冷静にそう思いながら手の中の封筒に視線を落とすと、丁寧な筆跡で綴られた自分の名前が目に入った。
 昔は怖くて手紙が出せなかったと告白したシェリアの、曖昧な微笑みを思い出す。彼女からの手紙。約束をしたからには、きちんと守らなければならない。
「難しく考えることなんてないよな、うん」
 自分に言い聞かせるように呟いて、封筒を握り締める。
 返事なんて、思った通りのことを書けばいいんだ。今伝えたい言葉をペンに乗せて、あとは思うままに書けばいい。それだけのことだ。簡単じゃないか。


(それだけのことなのに、なあ……)
 アスベルは紙の山を見ながら再び溜息を吐いた。
 伝えたいことがうまく言葉にできない。頭の奥底の方で、何やらごちゃごちゃと言葉が引っかかって出てきてくれないのだ。シェリアはどんな気持ちでこの手紙を書いてくれたのだろうか。
 羽ペンを握って姿勢よく座るシェリアの姿を想像しようとして、うまくいかなかった。もしかしたら、彼女も同じように頭を抱えながら、時には溜息を吐きながら、苦悩してこの一通の手紙を書いてくれたのかもしれない。そう想像すると少し可笑しくなった。
(こんなこと考えてるってばれたら、確実に怒られるだろうな)
 頬をほんのり染めて、眉を吊り上げて、「しんっじられない!」といつもの口癖を叫んでから、つんとそっぽを向くに違いないな。その様子も容易に想像できて、アスベルはくすくすと声をたてて笑った。
 彼女の怒った声、笑い声、呆れたような顔をして溜息を吐く音。涙をこらえる時に震える睫。握りしめた白い手、細い指。その指が奏でるピアノの旋律。
 シェリアのことをゆっくりとひとつひとつ思い出すと、不思議と心が軽くなる。さっきまで言葉のひとつに悩んでいた自分が嘘のように、思考がクリアになっていく。
 そうだ、またピアノを聞かせてもらう約束をした。彼女はちゃんと覚えているのだろうか。
 まだ小さかった頃は、よく聞かされたシェリアのピアノ。今も昔もたいして音楽に興味はないけれど、その旋律だけは今も鮮明に思い出せる。そのことを彼女はきっと知らない。
 今はどんな風に過ごしているんだろう。ピアノの約束が果たされるのはいつになるだろう。彼女はどこかで笑っているんだろうか。ここではない場所、ラントから遠く離れた地で。

(会いたいな)

 ふつりと浮かんだ言葉に自分でも驚いた。
 さっきまではうるさいくらいにひしめいていた言葉も、今はしんと落ち着いている。
 会いたい。
(そうか、そうだ。俺は今、シェリアに会いたい)
 シェリアがラントからいなくなることを思うと胸が少し痛んだ。それは彼女が愛する地から離れることに違和感を覚えたのではない。また幼なじみと離れることになるのが、辛かったんだ。
 一度そう自覚すると、いつの間にか再び羽ペンを握りしめている自分がいた。
 アスベルは深呼吸すると、今日何枚目かの新しい紙を取り出した。
 今度はまっすぐ、迷いなく筆を進める。
 やわらかなランプの光に照らされたインクが、その黒い色で綴られる言葉が、じんわりと紙に染み込み、馴染んでいく。真新しい白い紙の上で、彼女に伝えたい言葉が次々と溢れてくる。夜の静寂の中、ペンを走らせる音が部屋中に響いて、心地よいリズムを刻む。
 彼女のための手紙が、少しずつ完成に近づいていく。